リーダー列伝

豊田佐吉

豊田佐吉

1867年2月14日 静岡県生まれ
トヨタグループの創始者。1885年に公布された専売特許条例に刺激され発明家を志す。24歳の時、「豊田式木製人力織機」を発明し、特許を得た。その後も研究を続け生涯を通じて119件にのぼる発明を残した。
豊田の織機は国際的に認められ世界の紡織界に技術革新をもたらした。
こうした発明にかける心意気が息子の喜一郎に受け継がれ、トヨタ自動車㈱を生み出すことになる。

略歴

1890年 「豊田式木製人力織機」を発明
1902年 豊田商会を設立
1910年 念願のアメリカヨーロッパ視察
1911年 豊田自動織布工場を設立
1918年 豊田紡織株式会社を設立
1926年 豊田自動織機製作所を設立
1929年 イギリスのプラット社へG型自動織機の特許権を譲渡
1930年 他界 享年 63歳

リーダーとしての大きな特徴

1.発明により日本の産業発展に貢献した「創造力と開発力」

「発明を志す」
「発明とは、全くこの世に無き事柄を頭より揉み出すことであり、
新事実を搾りだすことである」佐吉は発明を通じ、84件の
特許権を得て、実用新案は34件にも上った。

2.発明に完璧を求め、生涯を捧げた「初志貫徹力」

「発明に捧ぐ」
佐吉は豊田式織機時代に辞任を経験している。赤字に悩んだ
経営陣が、佐吉に対し研究開発の自粛を求めたことに対し
激高した佐吉は席を蹴り飛ばし、辞表をたたきつけた。
そして同時にそれまで築き上げてきた財産を全て失った。
しかし、佐吉はその後米国・欧州に渡った後、再起を図るべく
新たな一歩を踏み出したのである。  

3.国益を優先し、発明はそのための手段とした「社会的使命感」

「夜学会」
佐吉は15歳になると、新聞雑誌を読み、村の若者たちと
夜ごと集まって、「夜学会」を開いた。そこでは盛んに国家社会
が論じられここで国のために自分ができることは何かと考えた。

発明を武器に、社会国家のために生涯を捧げた
「大義を抱いた発明家」

リーダーシップ・エピソード 

1.車返しの坂

佐吉が成功して名古屋から故郷に帰るとき、駅から人力車を使ったが、故郷に入る谷に近づくと必ず車から降りて残りの道を歩いた。佐吉曰く、「家の前までの乗ることはできない。山口村は私を育ててくれたところだ。私の先輩や村の人たちが汗水流して働いている中を、車に乗って通ったら罰が当たります」 こうした原点を忘れない佐吉の姿勢がそのままトヨタのDNAとして息づいている。

2.織機にかける思い

「男のくせに、機ばかりいじりおって、おかしな奴だ」佐吉は村の人々から時にこうしてあざけられた。しかし、佐吉は母親が機を織る姿を見て、「人間の衣食住というものは、みんな大切なものであるから、布を織る仕事も、決してゆるがせにしてはおかれない。今のような仕方では、みんながきっと困る時が来るに違いない。それには、どうしても、織機をもっと進歩させなければならない」と感じていた。

3.佐吉の遺言

勲三等端宝章の授与式から自宅に戻った佐吉は喜一郎にこう告げた。
「わしは織機を発明し、お国の保護を受けて金を儲けたが、お国のためにも尽くした。この恩返しに喜一郎は自動車をつくれ。自動車をつくってお国のために尽くせ。」この佐吉の遺言が喜一郎の自動車事業への挑戦を可能にしたとされる。しかし、この話は一方で「非常に巧みに考え抜かれた宣伝」という見方も指摘されている。

豊田佐吉の名言

障子を開けてみよ。
外は広いぞ。
研究と想像に心を致し、常に時流に先んずべし。

参考文献 参考URL

  1. 「ザ・トヨタウェイ」
    (著 ジェフリー・K・ライカー、稲垣 公夫、 デイビッド・マイヤー/日経BP社)
  2. 「豊田喜一郎伝」
    (著 和田 一夫、由井 常彦、トヨタ自動車歴史文化部 /名古屋大学出版会)

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