リーダー列伝

渋沢栄一

渋沢栄一

1840年2月13日 埼玉県生まれ 日本近代資本主義の父。
実業界の育ての親。幕府に仕えたあと1867年渡欧。帰国後、 株式会社の前身である合本組織の商法会所を設立。1869年大蔵省に入り大蔵大丞となり種々の法制度の制定・改正に尽力。1873年に退官の後、 実業界に入り第一国立銀行(後の第一銀行)を設立。以後、日本鉄道会社、サッポロビール、 王子製紙、日本郵船、日本鉄道などの創立に参画。関わった 企業数は500を超える。一貫して「道徳経済合一主義」を提唱し、経済の発展に努めた。

略歴

1840年 埼玉県深谷市に生まれる。以後、家業の畑作、養蚕、藍問屋業に精励。
1864年 一橋慶喜(後の徳川慶喜)に仕える。
1868年 徳川昭武に従ってフランスへ出立(パリ万国博覧会使節団)
1869年 静岡で「商法会所」を設立。
1873年 第一国立銀行開業。1875年 には頭取に就任。
1916年 実業界引退
1920年 国際連盟協会創立
1931年 他界 享年 91歳

リーダーとしての大きな特徴

1.相乗効果をもたらす「使命感と市場創造力」

「士魂商才」
渋沢は武士と商人が共栄共存の立場になる必要を感じていた。
そして産業を振興させるためには商人はただ利益を追求する存在
になるだけでなく、経済人として尊敬される必要があり、そのために
武士の持つ「士魂」と商人の保つべき「知才」との融合を図った。

2.人を牽引するのを可能にした「自己改革力と説得力」

「生涯学習」
渋沢は実に500を超える企業に関わった。その範囲も様々である。
常に、組織を牽引し、時代のリーダーシップをとってきた。
この偉業を可能にしたもの、それは「生涯学習」と称した渋沢自身
の自己改革力であり、そこから生まれる説得力であろう。

3.「萬屋主義」を標榜し、資本主義の礎を築いた「先見力」

「萬屋主義」
渋沢は自身の取組を「萬屋主義」と呼んだ。これは日本の農工商
の実態をみれば、とても一人一業で生計を立てるのは無理であり、
日本の商工会はまずは兼業を行うことで萬屋として出発せざるを
得ないという主張である。

社会的使命をもとに、実業界を育てあげた
「近代日本のオーガナイザー」

リーダーシップ・エピソード

1.岩崎弥太郎

渋沢は多数の企業に関与したことを称して「萬屋主義」と呼んだ。一方これに対峙するのが「一人一業主義」を標榜する岩崎弥太郎だった。この二人の考えは生涯を通じて合致することはなかった。渋沢の理念である「公益のための努力」も岩崎弥太郎のそれとは距離をおくことになった。しかし、この二人の英雄はそれぞれに危機意識を抱きながら日本近代社会の幕開けを切り開いていった。

2.銀行

「銀行」という言葉は渋沢が発明したものだ。金融制度の確立は渋沢抜きでは語れない。いうまでもなく、日本最初の銀行「第一国立銀行」の創立が皮切りとなった。渋沢は、論語とソロバンの一致の精神に基づき、産業を支援し、公益のために尽くす存在として銀行を設立し、そこに存立意義があるとした。この渋沢の思惑通り、銀行が産業の発展に大きく寄与したことは言及するまでもない。

3.パリ万国博覧会

渋沢は幕末の直前にパリ万国博覧会に出張を命ぜられる。この出張は三つの大きな意味を持つ。一つ目は、フランスの軍人が経済人である銀行家に敬意を払っている姿を見たこと。二つ目は博覧会場で各国の貨幣が出品されており、その中にあった紙幣を目前にしたことだ。そして三つ目は、幕末期に日本を離れていたことで、暗殺の危機を免れたことだ。

渋沢栄一の名言

事業には信用が第一である。
世間の信用を得るには、 世間を信用することだ。

個人も同じである。
自分が相手を疑いながら、 自分を信用せよとは 虫のいい話だ。

その事業が個人を利するだけでなく、
多数社会を利してゆくのでなければ、
決して正しい商売とはいえない。

参考文献 参考URL

  1. 「論語と算盤 」(著 澁澤栄一/国書刊行会)
  2. 「渋沢栄一伝」(著 幸田 露伴/岩波書店)

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