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リーダー列伝

豊田喜一郎

豊田喜一郎

1894年6月11日 静岡県生まれ
発明王・豊田佐吉の長男として生まれる。
トヨタ自動車(株)創業者。
父である豊田佐吉の自動織機開発に協力し、紡績機械も開発。
その繊維機械事業を基盤に、自動車の大量生産を目指して国産技術の開発に努めた。
彼の持つ遺伝子がトヨタの今を生んでいる。

略歴

・1920年 東京帝国大学卒業後、豊田紡織にて勤務を開始
・1926年 株式会社豊田自動織機製作所の常務取締役に就任
・1927年 豊田自動紡織の取締役に就任
・1934年 豊田自動織機製作所株主総会にて自動車事業進出を正式決定
・1935年 A1型乗用車の第一号の試作完了。同年G1型トラックを発表
・1936年 「ジャスト・イン・タイム」を提案
・1941年 トヨタ自動車工業株式会社の社長に就任
・1952年 他界 享年57歳

リーダーとしての大きな特徴

1.大衆車路線への賭けに動かした、内に秘めた「チャレンジ精神」

「大衆車構想」
「どうせやるなら、世人の一番難しいという、大衆乗用車を作ってみようという立場からやりたかったのです。」と思い、大衆車路線に突き進んでいった喜一郎のチャレンジ精神、独自性、社会的使命感は今もなお、トヨタの核心となっている。

2.現場・現地・現物を重視した「三現主義」

「汚い手」
喜一郎は自ら手を汚し、どんな小さなことでも改善に取り組んだ。若い技術者がきれいな手をしていたり、技術書を読んでいたりすると激怒した。

3.ジャスト・イン・タイム(JIT)を発想した「独創力」

「ジャスト・イン・タイム」
当時の日本の工業はとにかくコストがかかった。何とかコストを抑えようと考えた喜一郎は、現場に存在する不良品や、つくりすぎた部品に気付いた。余計なものをつくるからいけない。必要なときに必要なだけあればいいじゃないか!JIT、そしてトヨタ生産方式は喜一郎の「気づき」から生まれたのである。

現場主義を徹底し、着実に事業を成功に導いた
「偉業を成し遂げた堅実な経営者」

リーダーシップ・エピソード 

1.自動車事業参入のきっかけ

イギリスにあるプラット社に対し、自動織機を独占的に製作・販売できる権利を譲渡した後、7年後に喜一郎がイギリスを訪れた際、町には失業者が溢れかえっていた。一流企業だったプラット社の元気も失われているその光景から、 危機感が芽生えた。社員を守り、社会に貢献していくためにはこのままでは いけないという危機感が、自動車事業参入の考えを生んだといえる。

2.火の玉組

自動車参入を決意した喜一郎は、控えめな性格からは想像できないほど、自らが火の玉と化した。そして「火の玉組」と呼ばれる開発軍団を形成し、仕事を通じて部下の心を掌握し、エンジンつくりに邁進した。結果、シボレーのエンジンと同レベルのエンジンが誕生したとき、喜一郎は子供のように飛び上がって喜んだ。その場の従業員のほとんどが、この時はじめて喜一郎の笑った顔を見たという。

3.復帰を願う

トヨタ争議にて辞職に追い込まれた喜一郎に対し、トヨタを立て直した石田退三は復帰を切り出した。喜一郎は最初は拒んだものの「僕に自動車を造らせてくれるのか。クルマ造りならどんな苦労もいとわぬ。いや、どうも本当とも思えぬほどありがたいことだ。」と快諾した。しかし、この快諾の日から10日も絶たずして喜一郎は他界する。彼は夢半ばでその生涯に幕を下ろしたが、喜一郎の持つDNAは、トヨタ自動車に受け継がれている。トヨタの原点は喜一郎の中にある。

豊田喜一郎の名言

手を見せろ。
(工場で働く社員に対して。 きれいな手をしていたら機嫌が悪くなったという。)

誰も余りやらない又やり難い事業をものにしてみる所に人生の面白みがあるもので、
出来なくて倒れたら、 自分の力が足りないのだ。

参考文献 参考URL

  1. 「ザ・トヨタウェイ」 (著 ジェフリー・K・ライカー、稲垣 公夫、 デイビッド・マイヤー/日経BP社)
  2. 「豊田喜一郎伝」 (著 和田 一夫、由井 常彦、トヨタ自動車歴史文化部 /名古屋大学出版会)
  3. 「トヨタを創った男 豊田喜一郎」 (著 野口均 /ワック)

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